スペシャル

光原零子編

昼休み。

西栄鋒学園、保健室。

 

ボクはいつも通り、本を読んでいた。

すると、熊沢美希がやってきた。

 

「お邪魔していいかな、光原さん?」

「保健室の利用にあたって、ボクの許可は不要だ」

「あはは……、そりゃそうだけど」

 

熊沢は苦笑して、

 

「今回は、保健室が利用したいんじゃないから」

「では、なにかな」

「うんと、光原さんに用事があって来たの」

「ボクにか」

「ていうか、お友達なんだし、まずそっちから考えてよ」

「確かにそうだな。すまない」

 

頭を下げて、謝罪する。

熊沢と親しくなったのは、ごく最近のことだ。

友人関係、という間柄になってはいる。

しかしボク自身がそういう関係に慣れていず、まだこういう失敗が多い。

 

「まあ、それはいいんだけど」

 

熊沢は、上体を前倒し気味にして、話しかけてくる。

 

「それでね、光原さん」

「うん、なにかな」

「今度さ、一緒に映画を見に行かない?」

「ふむ」

 

少しだけ考える。

しかし、断るべき理由は思いつかなかった。

 

「次の休日なら、時間があるから構わないけれど」

「ほんとっ? それじゃ、これ見にいこっ」

 

映画のチラシを差し出されたので、受け取る。

とりあえず、タイトルにだけ視線を走らせる。

『1001匹のニャンちゃんまっしぐら』とあった。

 

「あたしは前に見たけど、すっごく萌える映画なんだよ〜♪」

「一度見たのなら、別の映画にした方が良くはないかな」

「う〜ん。でも、もう一度くらい見たいんだ」

「そうなのか」

「光原さんにも、萌えて欲しいしねっ♪」

「萌え、か」

 

親しくなって以降、彼女はボクに『萌え』を教えてこようとする。

あの手この手を使ってだ。

今回も、その一環らしい。

どうやらボクとその感覚を共有したいようだけれど……。

 

『萌え』——分かるようで、なかなか理解しきれない概念だ。

 

ボクは、受け取ったチラシを詳細まで観察する。

 

タイトルの他に、ネコの集団の写真が載っている。

その種類は多種多様。

ニャン、はネコの鳴き声の単純な記号化表現のはず。

つまり『ニャンちゃん』はネコ自身を表す比喩表現か。

1001匹はいなさそうだけれど……

それでも、100匹近くは写っていそうだ。

おそらくは、写っていないだけで、チラシの外にもネコがいる。

つまり実際には、タイトルどおり1001匹いるのだろう。

 

となると、やはり注目すべきは『1001』という数字か。

素因数分解すれば、1001=7×11×13。

3つの連続した素数の積で、1000+1、になる。

ただの偶然といえば偶然だが、ある種の面白みはある数学的事実だ。

 

「これは、1001匹という所に萌えればいいのかな」

「そうだね、うんっ」

 

熊沢は力強く頷いた。

 

「ネコは1匹でも可愛いんだしっ」

「ん?」

「それが1000匹もいたら、もう凄い萌えになるんだよっ」

「…………」

 

どうも、意思疎通に不具合が生じているように思えた。

 

面白みのある数学的事実は、萌えではないのだろうか。

別の例をあげて、確認してみよう。

 

「熊沢」

「うん、なに?」

「オイラーの等式 e^πi=−1、で、萌えるかな」

「……え、ええと、どうだろう?」

 

困った顔をされてしまった。

どうやら、萌えとは違うものらしい。

 

ボクが萌えの概念を正しく理解するまで、もう少しかかりそうだった。

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