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春の日差しと



 ――春眠暁を覚えず。
 毎年この季節になると実感してしまう。
 春の空気は心地よく、いつまでも穏やかな眠りの中に浸っていたくなってしまう。
 朝のベッドの中はもちろんの事、昼間にすごすリビングのソファでもそれは変わらない。
 今も怠惰なまどろみの中。
 夢とも区別がつかない世界を漂ってる。
「ほら邪魔ですよ。さっさと起きて下さい」
「ぐがががが」
 息が、詰まる。
 そんな安息を破ったのは妹の呆れた声と激しく口元を吸引する何かだった。
「げほっ! げほっ」
 ぶおぉぉぉぉ……と激しく吸い込むソレを口元から離し、盛大に咳きこんだ。
「掃除機は止めろ。掃除機は」
「自分で片付けしようと言った癖に、いつまでも寝ているからです」
 さくやは呆れて言い放ち、部屋の掃除を再開する。
「くっそ……同じくやるなら、愛のこもったキスでもしてくれればいいのに」
「激しい吸引がお望みならいつでもしますよ」
「……遠慮しておきます」
 さくやの向ける掃除機から目をそらし、顔を洗いに洗面所へ向かった。


 水を流し、眠気と共に掃除機でついた埃をまとめて洗い流す。
 大学生活も春休みになり、妹のさくやも実家に戻ってきていた。
 これまではのんびりゴロゴロと過ごしていたが、午後から来客があり、それで部屋の片づけをしようと宣言したのが昨日の夜。
 朝にはとことん弱いさくやだが、一度起きてしまうと元気なものだ。
「兄さん、少しいいですか?」
「なんだよ」
 今度は掃除機ではなく雑巾を片手にやってくる。
 改めてみると、さくやはエプロンをつけて頭に三角巾をまいている。
 掃除のためだろうけど、その格好はさくやの外見にあまりにもよく似合っている。
「…………お前、その姿だと給食のおばちゃんみたいだな」
「失礼ですね。まだお姉さんの年齢ですよ」
「それでどうしたんだ?」
「夕飯どうしましょうか? せっかくこっちに来るのだから、何か作るよりも外食の方が良いかもしれないと思いまして」
「……あの人は、東京の飯なんてあんまり食べた事ないだろうしなぁ」
 脳裏にいつもほがらかな笑みを浮かべる、銀髪の女の人を思い描く。
 神出鬼没の銀子さんだが、活動拠点は御奈神村だ。
 東京には滅多に出てこないだろうし、そもそも外食する習慣があるのかどうかも疑わしい。
「それと押し入れにしまっておいた来客用のシーツなんですが、少し古くなってて色が付いてしまってます。洗っても落ちないので、こちらは買い直した方がいいかもしれません」
「むしろそっちが急務だな……」
 せっかく来るお客様を、カビ臭い所で寝かせる訳にもいかないだろう。
「分かった買いに行ってこよう。ついでに、俺たちの昼飯も済ませてくるか」
「そうですね。洗ったばかりのキッチンを汚すのも気がひけますし」


 さくやと共に外に出る。
 親父は今は出版社の方に行っており、帰りは夜になる。
 御奈神村から遠く離れた東京の実家だ。三鷹駅に向かいながら、さくやと街を歩くのも久々の事だった。
「結局何から何までやらせちまって悪かったな」
「本当にそうですよ。反省してくださいね」
「反省してる……」
 小さくうなだれる。
 春の日差しが悪いという事は出来たが、そんなのはもちろんただの言い訳だ。
「冗談です。別に構わないですよ。……というより、兄さんが私にやらせないように、昨日遅くまで片づけ等をしていたのを知ってましたから」
「な、何のことかな」
「別に誤魔化さなくてもいいじゃないですか。朝起きたら大抵の所が綺麗になってるのだから、一目で分かりますよ。ソファで寝てたのもそれが理由ですよね」
「……まあ、少しは。でも寝心地いい天気だったのも間違いないぞ」
「それは承知しています」
 手をかざし、空を見上げる。
 桜の季節も終わりに近づき、春の嵐も過ぎ去った空は一面の青が広がっていた。
「御奈神村の空ほどではないですが、綺麗ですね」
「そうだな」
 こうしてさくやと東京の街中を歩くのも、ずいぶん久しぶりだ。
 最近は御奈神村で待ち合わせる機会の方が多かった。
 子供の頃にこっちに引っ越してから、幾度となく繰り返した事なのに、妙に新鮮に思うのはそのせいだろう。
「父さんもついてないですね。せっかくのお客さんなのに」
「そりゃ逆だ」
 さくやが首をかしげる。
 学園を卒業し、こっちに戻ってきたのはつい数日前の事だった。
「銀子さんが東京に来るって知ってから、追いこみで仕事片づけてたからな。……まあ、俺たちから聞きかじるしかなかった天女についてや、皆神家の家系について直接聞けるなら、そりゃ気合いも入るだろうけど、ものすごく気合い入ってたぞ」
「ということは、今日仕事上がりなのは」
「むしろ、今日に合わせて頑張ってたからギリギリセーフって所だろう。疲れ果ててゆっくり話す暇もなく寝てそうだけど」
「……何とも父さんらしいですね」
 兄さんに良く似てますと、小声で聞こえた気がするが、聞かなかった事にしてやろう。
「それで銀子さんの方はどうして東京に? こっちで何か事件でもあったのでしょうか」
「俺もそれは聞いてないんだよな……案外、さくやの卒業祝いが理由だったりして」
「まさか。それだけのために来るというのも……」
「その辺りも含めて後で本人に聞いてみればいい」


 駅に着いた。
 JRの三鷹駅から吉祥寺までは、中央線でわずか一駅。
 外食をするなら、料理店の多いこっちの方が何かと便利だ。
 駅前のアーケードを回り、シーツを買ってから昼食によさそうなお店を探す。
 ついでに久々に来たお店をさくやと二人で冷やかして回る。
 ――と、不意に東京でも珍しい銀色の髪が目に入った。
「…………あれ?」
 思わず驚きに固まる。
 傍らのさくやも足を止め――俺の見てる方向に驚愕の視線を向けていた。
「うう〜〜ん。これでもないかなぁ……」
 店頭ディスプレイを見ながら一人でうんうんと唸っている。
 目立つ髪の色は人目を引くみたいで、通りすがりの人が彼女に視線を送っている。
「に、兄さん。あれってやっぱり……」
「……見間違いって可能性が無い訳じゃないけど……流石にあんな人、他に居るはずが無いよな」
「ですよね……」
 おそるおそる、その人に近づいていく。
 俺たちに気づいた様子もなく、店頭に並べられた商品に見入っているようだった。
「あの……銀子……さん?」
 小さく声を掛けると、飛びあがらんばかりに驚いていた。
 そして――。
 ゴンッ!
「いったぁぁぁ……ぃ……」
 思いっきり、目の前のガラスに頭をぶつけていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「いきなりおどかさないでよぉ。もう……」
 涙目になって抗議してくるのは、銀髪に赤い目をした恐ろしく容姿の整った美女……間違いなく銀子さんだった。
「ど、どうしてこんな所に」
「こっちの台詞だよ。もう」
 涙目で抗議してくる。
 色々な意味の驚きが混ざって、上手く言葉にならない。
「ともかく移動しませんか? 人目もありますから」
「……そうだな……」

 そして銀子さんを連れてきて、近くのファミレスに入った。
 クーラーの効いた店内に入り席に案内されると、銀子さんは貰ったおしぼりを額にあてた。
「うう〜〜。久々に不意打ちされたよ。ほんとびっくりしたぁ」
「意外な感じもするし、銀子さんらしいともいえるし、妙な気分なんですが」
「それよりも先に、お久しぶりです。もう東京に来られていたのですね」
「皆に買っていくお土産みてたんだけど、何がいいか全然分からなくて。というより、あっちでも買えそうな物ばかりだから、どうしようか迷っちゃった」
「まあ、観光地でもない限り、品ぞろえが早々変わる訳もないですしね」
 浅草やら新しく出来た電波塔やらに連れて行けば、お土産に成りそうな物も見つかるだろうか。
 明日はそっちに行くのも良いかも知れない。
「それで? 私らしくないってどうして?」
「ん? ああ、いや。銀子さんって隙だらけのようでいて、隙ってあんまりない印象だったので、話しかけても平然としてるような気がして」
「ああ……そういうことかぁ」
 気まずそうに水を口に含む。
「普段は羽衣をセンサーにしてるから、それで近くにいる人を把握出来てるだけ。今は人が多すぎたから、そっちは殆どせずに私の印象が薄くなるようにって言うのに振り分けてた」
「それでですか」
 銀子さんをちらりと見ても、俺たち以外の人は、すぐに通り過ぎていっていた。
 むしろあれだけ店頭に張り付いていたら、中の店員さんが出てきそうな物だったのに、それもなかった。
「他にもお風呂入ってる時も外さざるをえないから、そういう時もびっくりする事あるよ」
「なるほど。滞在中は念入りに注意してくださいね」
「覗かないからっ!」
「もちろん分かってますよ? あらあら兄さん。何か心当たりでもあったのですか?」
「く……っ」
 何を言い返しても泥沼になるため、さくやには視線だけを向けておく。
 銀子さんは曖昧に苦笑して頬を染めていたが、改めて傍らに置いてあった紙袋を探ると、さくやに包みを差し出した。
「はい、さくやちゃん。これどうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます。ですがこれは一体……?」
 特に大きな物でもないようで、軽く持ちあげてる所を見ると重さも無いらしい。
「後で開けてみて。私からの卒業祝いってやつ」
「え……本当にですか?」
 目を丸くして、俺と顔を見合わせる。
 嘘から出た真とは、まさにこの事だった。
「どうしたの?」
「いえ、来る途中にそんな話をしていて……」
「あちゃー。びっくりさせようと思ってたのに、読まれてたかぁ」
「そういう訳じゃないのですが、その、驚きました」
「というより、他に理由を思いつかなかっただけで……」
 慌てて二人で否定をする。
 銀子さんの行為を読み切ってた訳でも、最初からそれを目当てにしてた訳でもない。
 ただの冗談だったのだが、まさか本当に祝いに来てくれたというのは驚いた。
「驚かせちゃったみたいだけど、別に何か意味はないんだ。あ、もちろんこれ自体が意味ともいえるけどね」
「本当に、ありがとうございました」
 さくやが改めて礼を言って、包装された包みを受け取る。
「これもしかして服ですか?」
「うん。良く分かったね」
「手触りから何となく……開けてみてもいいですか?」
「それは構わないけど、いや、やっぱり帰ってからの方がいいかな? 似合うのは間違いないから、それは心配しないでいいよ」
「わかりました。ありがとうございます」
 再び改めて礼を言って、傍らに置いた。
「あー、よかったぁ。どう言って渡そうかちょっと迷ってたんだ。自分でもいきなりって思うしね」
「いえ、それは……すみません」
「謝る事じゃないよ、だって本当にそうだし、これまでも二人に何かお祝いあげたりしてなかったでしょ?」
「それはそうですけど」
 というより、銀子さんと知り合ったのがここ2年の話だ。
 向こうは俺たちの事を生まれた頃から知ってる訳だから、時節のお祝いなんてして当然に思ってるのかもしれないけど、遠い親族だとしても、母の親友としても、そこまでしてくれる義理は無いはずだ。
 あるとしたら銀子さんの厚意だけで、今はそれを受け取った。
 だからなおの事、ありがたく思う。
「これは私自身のためでもあるから、本当に気にしないで大丈夫」
「銀子さん自身の?」
「うん……まあ、この前まで色々とあって、それでせっかくなんで新しい生活を……と思ってみたのはいいものの、それまでの暮らしにすっかり馴染んじゃってね……」
「それは仕方がないような」
 過ごした歳月さえも、人間どころか大抵の国の歴史をも凌駕してる銀子さんだ。
 それで根付いた習慣なら、ちょっとやそっとじゃ変わらないだろう。
「でもそれじゃ変わりがないから、少しずつ『普通』をやってみようと思って」
「と言いますと?」
 銀子さんはこれまでも御奈神村という人里に混じって暮らしている。
 今さらやってみるなんてレベルじゃないと思ったのだが……。
「ちょっとだけ人の生活に間借りするんじゃなくて、もうちょっと孝介くん達の意味に近い『普通』をね。密接なご近所付き合いとでも言ったらいいのかな……ほら、それならこう言うのは自然でしょう」
「あ、なるほど……」
 人に混ざるのと、コミュニティに属するのは大きな隔たりがある。
 村の中で暮らし御奈神村の歴史において重要なポジションとして存在してはいたが、確かに銀子さんは村の一員ではなかった。
「でも私が大っぴらに暮らすのも、やっぱりそれはそれで無理だからね。だからもっと身近な所から始めようと思って」
「なるほど、それで」
「……と思ってみたんだけど、迷惑じゃなかった?」
 さくやと顔を見合わせる。
 それこそ、思ってもみない言葉だった。
「まさか」
 そんな事があるはずがない。
 天女を始祖として始まった皆神家なのだから、その天女の姉妹が部外者である訳もない。
 それに、銀子さん自身が嫌だと言っても、俺たちはとっくに彼女を切っても切れない存在だと思っている。
「もちろんうちだけじゃなくて、皐月さん達にもですよね?」
「うん。最近は少し皐月ちゃんのお宅でお世話になってるんだ。今日の事も、実は相談してきた」
「なるほど、それで」
 服を送るというアイディアも皐月さんからなのかもしれない。
 さくやは俺たちの母親に酷似した容姿をしている。
 それは、夏の事件まではさくやに残された呪いの一つだったのかもしれない。
 でも今は、それも受け入れてさくやとして生きている。
 母さんを良く知る二人が選んだのだとしたら、さくやが身につけても良く似合うだろう。
「帰ったら早速着てみてもいいですか?」
 柔らかくほほ笑んで、銀子さんに向けて問いかける。
「もちろんだよ」
 そう言って返す銀子さんも、花畑のような笑みだった。


 銀子さんがさくやに送ったのは、普段着ている物よりも大人びたシックな色の襟付きのワンピースだった。
 髪をしばりポニーテールにしたさくやは、普段のイメージとは正反対だが、違和感なく着こなしていた。
 きっとこれは母さんが好んだ格好だろうけど、それを着たさくやは母さんが持つイメージとはまったく違う物だろう。
 それは本人も分かっているし、送った銀子さんも承知している。

 ただ普段のさくやよりも少しだけ大人に見えて――この春から大学生となる妹には、驚くほどよく似合っていた。


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