Episode1 〜小夜璃〜

「まだ起きてられたのですか」

 ホールに響いた小夜璃の声に、神凪莉都は顔を上げた。
 月光館のホールは照明が落とされ、月明かりが唯一の光源となっている。
 その中で莉都はソファに腰掛けたまま、かぶりを振った。
「新学期の挨拶が思い浮かばないんだ。もう来週だというのに」
 そこで言葉を区切り、じろりと小夜璃を睨む。
「小夜璃が文句をつけるからだ」
「先日のアレでは、さすがにちょっと……」
「簡潔でいいと思うんだがなぁ」

 先日、小夜璃に見せた一枚のテキスト。
 そこには必要最小限の文章だけが並んでいた。

『学生の本分を疎かにせず周囲の者と切磋琢磨し、自己を磨くように』

「ああいうのは理事長のあいさつではなく、標語というのです」
「標語おおいに結構じゃないか。意味の無い話をくどくどとするのは好きじゃない。それに話が短い方が喜ばれる」
「別に長くなくてもよろしいと思いますけど」
「具体的に言ってくれ」
 莉都が渋面で返す。
 いつも涼しげな顔を崩さない少女にしては、珍しい顔だ。
「それは莉都様が決めないと」
「難しい注文ばかりじゃないか」
 疲れたように言って、莉都はテーブルの上に置かれた本を手に取った。
 古今東西の偉人の言葉をまとめた物らしい。
 引用する台詞の参考になればと、小夜璃が渡した物だ。
「やはり昨年と同じでいいんじゃないか?」
「ダメです。それこそ何も変わっていないじゃないですか」
「ふむ……」
 髪をかきあげながら、本に視線を落とす。
 隣に居た所で莉都の集中が途切れる事は無いと知っているが、それでも邪魔しないように小夜璃はその場を立ち去った。

 後には一つ、お茶菓子とカフェオレが残されていた。



「……ふぅ」
 自室に戻り仕事着であるメイド服を脱ぐ。
 下着もはずし、パジャマに袖を通した。  衣服を着替える行為は、小夜璃にとって仕事の終わりを意味する。
 神凪莉都の使用人としての業務は終わり。
 これから夜更けの短い時間は、夕月小夜璃としてのプライベートになる。
 朝食から始まり、夜までの長い時間だ。  睡眠時間を除けば一日のほぼすべて業務時間に取られ、またそれを苦に思わない自分が存在している。
 それは以前には少しも想像しなかった事だ。
 神凪莉都と知り合ったのはふとした切っ掛け。
 それから職を失い、使用人として声がかかったのもほぼ偶然の賜物だろう。
 最初は次の転職先を見つけるまでの、繋ぎのような気持ちだった。
 しかし、今はその気持ちも変わっている。
 何時まで続けられる仕事かは分からないが、もう少し長く完璧なようでいて、どこか危なっかしい少女を支えてあげたいと思っていた。

 録画したテレビ番組を流しながら軽く読書をする。
 その後は特に義務付けられている訳ではないが、その日あった事を業務日報にまとめる。
 莉都が居ない間の館の管理と、必要があれば秘書として付き従う。
 それらの日常は一年を通じて変わる事がなく、同じ内容しか記されない業務日報は、いつしか小夜璃の日記のようになっていた。

 ――本日も、特に記載する事はなし。
 主に劣らず無味乾燥な出だしから始まった。

 午前。食堂の備品が切れていたので補充を行う。品名は以下の通り。電球、調味料3品。テーブルクロスの替えを発注。
 午後。月光館の今年度分の諸経費のまとめ。清掃業者が到着。今週いっぱい続いた裏手の除草と清掃が終了。
 新入生と思しき少女が来訪。学園の散策をしている途中に立ち寄ったとの事。
 夜――

 そこで小夜璃の手が止まった。
 自分の書いた文章を読み返す。
「莉都様の事、言えないかしら」
 他人に見せる訳でもなく、簡潔を良しとする莉都を相手にする文面だから、必然的に事務連絡だけになっていく。
 仕事の書類とはいえ余分な肉をそぎ落とし、骨だけになってしまうのは少し味気ない気がした。

「………………」
 夜。莉都様が理事長挨拶の文面を構築している。
 簡潔で分かりやすく。それは莉都様の美点ではあるけれど、年齢の割に老成しているようにも思う。
 理事長としてではなく、同年代の莉都様の言葉を聞きたいと思う人もいるはず。頑張って下さい。

 すこし文面が軽すぎるだろうか。
 でも、今日はこれでいいような気がした。
 言葉で言うには迷うし、自分が指導出来るような立場ではない。
 けれど文章で語りかけるなら、より本音が出せるだろうか。
 雇用主と使用人という立場を超えた内容だとは思うが――今日はこれでいい事にした。

 ロビーに降りると莉都はまだ頭を捻っているようだった。
「小夜璃は――」
 こちらを見向きもせず、足音だけで問いかける。
 この広い館の住人はたったの二人。自分以外の物音が聞こえたら、それは余程の例外を除き特定できる。
「小夜璃の学生時代はどうだった?」
「そうですね……」
 質問の意図を考えながら、少しずつ思いだしていく。
 あるいは意味など無いのかもしれない。それなら、素直に思ったままを口にした方がいい。
 解釈はこの聡明な少女がしてくれるだろうから。
「普通でしたよ」
「……もう少し具体的に」
 やはりこの返事ではダメだったようだ。
 もう少し深く記憶を掘り起こす。
「昔、この街に住んでいた事があります。その時は――毎日が楽しかったですね」
「ふむ……」
 こちらの話題で正解だったようだ。
 あの時の自分は――どうだっただろか。
「その時の自分にとって、世界はとっても小さかったですね。授業を受けて、部活を行って、それから帰りに友達とどこかで遊んで帰る。休み時間には流行っていた漫画やドラマの感想を言いあったり……そして長期休暇の前のテストの点数に一喜一憂して、それが世界の全てでした」
「そうか……それらは、私には無い物だな」
 莉都がぽつりと言う。
 あくまで事実の確認とも言うべき、淡々とした口調がほんの少しだけ寂しく聞こえた。
「そうでもないと思いますよ」
 気がついた時には、とっさにそう言っていた。
「たまに話してくださる、昔のご友人の事。その時の莉都様はすごく楽しそうです」
「そうか?」
「はい」
「……そうかもしれないな」
 そっぽを向いて、怒ったように言う。
 けれど、少しだけ頬は朱に染まりバツが悪そうな空気を漂わせている。
 すごくわかり辛い、莉都の照れた仕草だった。
「とはいえ今ここに居ない人物の話をしてもな……もうアイツも、昔の事など忘れているかもしれない」
「私にはそうは思えません」
「どうして言いきれる?」
「だって……」
 こんな個性の塊のような少女を、はたして忘れるなど出来るだろうか。  普段、沈着冷静を常とする莉都が唯一言葉を弾ませる時。それは相手の少年についての思い出話をする時だった。
 意図して話題に乗せている訳ではなく、自然と言葉に出ているように、莉都は自分でも気付かないうちに言葉の端に
唯一の友人の話題を乗せている。
 その姿こそ、まぎれもなく彼女が年頃の少女だと実感させるものだ。
 学園でもその姿を見せるなら、彼女と他生徒の垣根など無くなるだろうに……。
 そして、共に莉都と過ごしたなら、彼はどれだけの物が詰まった日々を過ごしていたのだろう。
 忘れてしまうには密度の濃い時間に思えた。

「莉都様が話す時に、すごく楽しそうですから。向こうの人も同じ思いを持っているなら、忘れるはずがありませんよ」
「どうにも具体性と説得力に欠ける話だな……それは願望と言うんだ」
「信じていれば願いは叶うものですよ」
「誤魔化されてるような気しかしない」
 困ったように頭をかく。
「あ、では発想の転換をしてみてはどうですか?」
 ふと一つ閃いた事があった。
「彼が同じ学園に居たとして、莉都様の先ほどの挨拶を聞かれたらどう反応するでしょうか」
「私が知ってる進矢は、大昔の子供だった時だぞ。だが……そうだな……間違いなく先ほどの小夜璃と同じような事を言うだろうな。面白味がないとかつまらないとか」
「大多数の生徒もそう言うと思いますよ」
「そういうものか……」
 そこで再び、髪をかきあげる。
 ここまで悩んでいる莉都は初めて見る。
「そうだ。小夜璃は何か用事があったんじゃないのか?」
「はい。これをわたしに来ました」
「業務日報? なんだ。こんなのいつものように――」
 そこで言葉を区切る。
 ちらりと小夜璃を見て、頷いて受け取った。
「わかった。目を通しておく」
「はい。よろしくお願いします」

 もう少し考えてみると言う主を残し、小夜璃は再び自室へ戻った。


 あの文面で伝えたかった事は、ほぼすべて口頭で話してしまっていた。
 だから若干のためらいがあったのだが、莉都はそれも全て理解していたような気さえする。
 彼女を前にすると、自分の心の内を自然と見透かされてしまう。
 それが莉都があの年で権限を持つ理由であり、彼女が他者を従わせる力だ。

 知りあって暫くは、正体の分からない人物だと思っていた。
 早く次の仕事を見つけて、ここから離れようと。
 彼女が自分のどこを気に入ったのか分からず、少し――怖く思っていたのだ。
 でも、その考えが覆るのにそう時間はかからなかった。
 彼女がたまに言葉に乗せる少年の話。
 小夜璃にとっても懐かしい彼の話題をする時の莉都は、年齢相応の少女の顔を覗かせていた。
 莉都は自分が他者と隔絶していると思っている。
 それは間違いではないが、莉都自身が自分が浮かべている年頃の表情を知らない。
 あの当時の彼はどこまでもまっすぐで元気な、少年らしい少年だった。
 果たして今は、一体どのように成長しているだろうか――。

 翌日、春休みの最中に理事長として登校する神凪莉都は、疲れた顔こそしていたものの、すっきりした顔をしていた。
「まだ時間はあるから、しばらく考えることにした」
「はい。楽しみにしています」
「……頑張ってみる」
 嘆息しながら学園に続く山道へ歩いて行く。
 まっすぐ伸びた背は泰然としていて、他者を寄せ付けない雰囲気を漂わせている。
 それでも、小夜璃は彼女の内面に年頃の少女としての部分がある事を知ってる。
 普通の学生生活を知らないと、彼女は言った。
 友達と遊び、共に目的に向かい、そして誰かと絆を育んでいく。
 莉都にもそんな普通の思い出を作って欲しいと――背を見送りながら、小夜璃は願っていた。

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