「ですから。何度も言っているでしょうが――」
名凪星華の苛立った声が職員室に響き渡った。
天都原学園の春休み。
生徒にとっては新学期を待つ束の間の時間。そして教師にとっては卒業生を送り出し、新たな生徒を迎え入れるまでの準備期間だ。
一部の運動部を除いて部活も行われておらず、活動は新学期からの新入生募集へとシフトする。
学園の休閑期とでもいうべきこの時期に、慌ただしく乗り込んできたのが名凪星華だった。
現在学園の2年生で、秋の生徒会選挙で会長に就任した少女は気の強さと行動力。そして彼女の持つ特殊な背景のせいで、教員の間では存在を少々持て余していた。
「ですが、生徒がそのような事をするのも……」
場の空気を察してか、教員の天野深弥が口を開く。
学園に来てもっとも日の浅い新任であり、そのために他の職員から割に合わない事を押しつけられる事があった。
「なら何のための肩書きなんですか」
「それは……」
それを思い出しながら、星華は彼女に反論しても意味が無いと悟る。
天野深弥が生徒思いの先生だというのは、よく知られた話だ。
大学を卒業してから日が浅く、新任らしい不器用さを出しながらも真面目に打ち込む姉のような先生というのが、彼女が学園で一年過ごした後の評価だった。
もう一人評判のいい教員の神無月朱美はこの場にはいない。
水泳部顧問兼保健室担当の彼女は、余程の場合を除いてそちらに詰めている。
「じゃあいいです。あたしが好き勝手にやりますから」
文字通り宣言して、星華は職員室を後にする。
「あ、名凪さんっ!」
後ろから天野深弥の声が聞こえたが、振り返らなかった。
「……どうしたんだ? 大層な剣幕じゃないか」
「…………別に」
そしてちょうど入れ違いに、制服をきた女生徒がやってくる。
色素の薄い髪に涼しげな目元。
整った相貌に浮かぶ表情は乏しく、射抜くような視線は他者との間に境界を作っている。
この学園の理事長である、神凪莉都だった。
春休みにも関わらず、彼女も登校しているらしい。
「そうか」
特に気にした様子もなく、莉都は職員室に入って行った。
「……まったく」
誰に言うともなく、星華は嘆息した。
星華が職員室にやってきた発端に、莉都も一部絡んでいる。
ここ数年、学園は好奇の目に晒されていた。
同年代の少女が理事長を務める学園は、世間から好奇の視線を向けられる。
メディアの取材が行われ、そのため昨年度から受験者数は増えている。
ただ――目立つと言う事は、悪い事も引き寄せるものだ。
春先という、人々の心が浮つく季節。
天都原学園の女生徒というだけで、トラブルに巻き込まれる事例がここ最近増えていた。
――結局、あたしがやるしかないか。
学園でも寮でも無いとなると、教員の手が伸びなくなる。
当然ながら私生活の管理までは出来ないし、そこまで行くと学園という枠を超えてしまう。
だから、腰の重い教員の気持ちは分からないでもないが――かといって、目の前の問題に対して渋る態度に納得は行かなかった。
「名凪さん」
「……先生?」
学園を出た所で深弥が追いついてきた。
急いできたのか、小走りでやや上気した顔をしている。
「出てきちゃっていいんですか? というか、あたしと一緒でいいんですか」
「はい。少しだけなら大丈夫ですよ」
そうしていたずらっぽく小さく笑う。
こういう所が評判を作るのだろうと、星華は思った。
「それでどこに行くんですか?」
「まずは商店街に。あそこらへんはじいちゃんと付き合いあった人いるから、少し話をしておこうかと思います」
「なるほど。わかりました」
生徒に従う形で付き合ってくれるらしい。
何故わざわざやってきてくれたのかと聞くと
「教員もいっしょの方が、話も聞いてくれやすいですよね」
との事だった。
「名凪さんはどうしていつも一生懸命なんですか?」
街を回りながら、深弥がそんなことを聞いてきた。
「別に……あたしはやりたいようにやってるだけですよ」
「何か理由があったりとか……?」
「……無いわけじゃないですけど」
幾つかの店舗を回り、街の人と話して行く。
星華の事を覚えている人もいれば、忘れている人もいる。
何度か顔を出している所は話も弾むし、初めて訪れた所では話半分に流される事もあった。
そして、幾つかでは『名凪』と名前を出した途端に嫌な顔をされる事もあった。
「今の人たちは『神凪様』とかいっちゃって、昔からべったりのところですよね」
「そうなんですか?」
「ええ……まあ」
そうして思いだした。
彼女は学園の卒業生ではあったが、深く地元に密着した人間ではなかった。
「ここって昔から神凪家の力が強いんですよ。その辺りのことは?」
「そういう話はよく聞くのですが……よくわからないんです」
「ですよね……」
どう説明したらいいだろうか。
星華自身も、経済や家の力関係がどう影響を及ぼすかなど、さっぱりだ。
「昔っから神凪家ってけっこう大きかったらしくて、ここで何かするには神凪家の許可が必要とか、そういう暗黙の了解みたいなのがあったんですよ」
「……やくざ屋さんとかですか?」
「そういうのとは違うんですけど……いや、もしかしたら似たようなものなのかな? あたしもよく分からないんですが、ともかく昔からそうだったんです」
「ふむふむ」
とりあえず、そういう物として理解はして貰えたようだ。
「で、あたしの名凪家っていうのが、神凪家の分家なんですけど、ずいぶん前に仲が悪くなっちゃったみたいで……」
「あ、それで先ほどの?」
「そうです」
実際に何があったのかは知らないが、神凪家のやり方は良く知っている。
どうせ金儲けのためのロクでもない話があり、神凪家が何かやらかしたんだろうと星華は思っている。
「だから名凪っていうだけでさっきみたいな人もいたり、必要以上に持ち上げたりする人もいる訳で……」
「大変なんですね」
「あたし自身は別に。もう名凪なんていっても、名前だけですし……ああ、でもそれで話を聞いてくれないんじゃ結局は名前に振り回されているのかな?」
「そういうのって実際にあるんですね……」
どこか遠い世界のように、深弥は言う。
星華にとっては生まれた時からついて回るものだが、彼女にとっては違うのだろう。
「先生の生まれはここですか?」
「はい。そうですよ。在学していた時はバスで通っていました。でも神凪さんとか名凪さんの話は、知らなかったですね……」
「そうですよね……そういうもんだと思いますし」
「あ、でも昔の学園では――」
「はい?」
「……いえ、なんでもないです」
「そうですか」
それで流したが、何を言おうとしたのかは想像がついた。
彼女が在学していた時、理事長の名前は名凪だったはずだ。
それが今は神凪になっている。
関係を知った今は、それがおかしい事に思い至っても不思議ではないだろう。
でも、星華はそれをあえて説明はしなかった。
どのようにまとめればいい話なのか分からないし、神凪莉都に対しての話題を冷静に済ませる自信もない。
「……続き、行っちゃいましょうか」
「はい。わかりました」
その後、二人は学園の生徒が立ち寄りそうな場所を回ってきた。
駅前から一通り回り、終わった時には日が暮れていた。
「今日はありがとうございました」
「いえいえ。私こそ名凪さんに言われるまで全然思い至りませんでした」
深弥の言葉には刺はない。
素直に感心しているようだった。
「私も学生時代はそうだったんですが、先生に休み前に注意とかされても、すっかり忘れちゃうんですよね……覚えていても守らないですし」
「あたしもですよ」
「ふふ、そうですよね」
二人で密やかに笑い合う。
今まではあまり面識のない教師だったが、信用できる人だと思った。
「こんな時間まで抜け出しちゃって、大丈夫ですか?」
「実は平気なんです」
「……?」
彼女は新任で、教員の間でも割を食うことが多い立場だ。
とても大丈夫そうには見えない。
「実は神凪理事長に許可を貰っていまして。私は会議に居ても居なくてもいい立場ですから、すんなり出てこられました」
その言葉を聞いて、星華の息がつまった。
知らず、唇をかみしめる。
背筋の温度が下がった気がした。
「……じゃあ、アイツの指示であたしの所に?」
声に刺が混じったのが自分でも分かる。
けれど、深弥は笑ってそれを流した。
「名凪さんの言う事が正しいと思ったから、許可を貰ってきたんです」
「そうですか……」
その言葉に嘘は無い――と思う。
「アイツどうでした?」
改めて謝罪するのも変な気がして、話題を変える事にした。
「なんだか悩んでいるようでしたよ。新入生に対する挨拶をどうすればいいのかと言われてました」
「……また変な事で悩んでるんですね。昨年みたいに適当に言えばいいのに。どうせ理事長挨拶なんて誰も聞いてないんだから」
「立場上、素直に同意はできませんが……ですが、真面目でいいじゃないですか」
「そういうもんですかね」
神凪莉都の気質からして、壁に掛けられた教訓のようなことを二言三言話して終わりだろうに。今さら、何を何を悩む事があるのか。
「じゃあどんな変な挨拶が飛び出してくるのか、楽しみにしています」
「きっと真面目なものだと思いますよ。だって理事長ですから」
「……そうですね」
あの人を寄せ付けない切り立った崖を思わせる女生徒は、常に正しくあろうとまっすぐ立っている。
それだけは星華も知って、認めている。
けど、だからこそ――彼女にも悩む事があるのかと意外に思った。
莉都のイメージに合わない、普通の女生徒のようだから。
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