Episode3 〜和奏〜

「わーかなぁーーっ!! いったよーーーっ!!!」

 和奏の守備位置めがけて白球が飛ぶ。
「任せてーっ!!!」
 声がかかった時には、既に今里和奏は落下地点に走り込んでいた。
 犠牲フライ狙いの山なりの球だ。
「いくよ!!」
 グラブに収まったのを確認するでもなく、振りかぶってホームに投げる。
 サードからのランナーを完璧に刺せるタイミングだ……本来なら。
「……あ」
 セカンドが中継に入る。
 本来なら問題ないプレイのはずだが、塁間距離の無いソフトボールでは時としてそれが命取りになる。
「セーフ!」
 審判の判定が無情に下る。
 最終回で0対1。
 スコアボードに記された決定的な一本線。それがチームの明暗を分けた。
「……負けた」
 春休みに行われている毎週末の練習試合。
 黒星がついたのは、これで2回目だった。


「はぁ……」
 溜息をついてがっくりと肩を落とした。
 ユニフォームの入ったバッグを手に女子寮への帰路についた。
 チームメイトにも同じ寮に住んでる者も居たが、今日は一人で帰りたい気分だった。

「……完璧な捕球だったのに」
 外野とはいえソフトならホームベースまでの距離は野球よりも遥かに近い。
 一度、人が捕って投げ直す中継よりも、そのまま球を転がした方が速く届く。
「…………」
 バッグの中からボールを取り出した。
 野球よりもずいぶん大きいソフトの球。
 二度三度と放って感触を確かめる。
 柔らかな手触りは手に馴染み、思うがまま回転を加えて手の平で回す。
「……勝てる試合だったのに」
 どうしてこうなっちゃうんだろう……とぼやきながら肩を落とす。
 卒業式で三年生が抜けた後の練習試合だ。
 先輩たちが居なくなってもできる所を証明しようと、みんなで燃えていた……はずが、結果は連敗続き。
 釈然としない思いを抱え、和奏の心は晴れなかった。
 ――トン。
 軽い音を立ててボールが零れる。
「わ、わ、わっ」
 坂道で弾かれ、加速を付けて転がっていく。
「まって! ちょっとっ!!」
 ガードレールに弾かれ、山側の壁に向けて転がる。
 溝に落ちて徐々に加速して落ちて行く。
「わーっ!!」
 その先はカーブになっている。
 そこを越えると、後は下めがけてまっしぐらだ。
 いくら硬球より柔らかなソフトボールとはいえ、普通のゴムボールなんかよりも遥かに硬い。
 この高さから落ちて、万が一頭に当たったら無事では済まないかもしれない。
「誰かとめてー!!」
 転がり続けるボールに向けて届かない手を伸ばす。
 しかし幾ら伸ばした所で人の手は短く、ボールがその懇願を聞く事はない。
「だーれーかーーっ!」
 山側の石壁が曲線を描く。
 その先を過ぎたら、後は虚空へとまっしぐらだ。
 勢いに押されてボールが地面の溝に弾かれる。
 宙に舞う白球は放物線を描いて――人の手に吸い込まれた。
「……ふむ」
 ボールを掴み取った女生徒は、自らの手の中の球をしげしげと眺める。
「返すぞ。坂道でボール遊びは感心しない」
 それを和奏の方へと放った。

「え、あ……うん」
 緩やかな放物線を描いて放たれる球を――和奏は捕り落とした。
「あ」
 トン――トン――と傾斜に弾かれて転がる。
 再び白球は坂下の少女の手に戻っていた。
「しっかり受け取らないか」
「あ、うん……ごめ……あ」
 再び弾かれる球。
 落ちる溝に弾かれ、あさっての方に弾かれる。
「…………」
 下の少女は難なく球を捕ると、再び和奏に放り返した。
「え、え……? 今のすごくない? ってかすごいよね!」
「そうか?」
「う――うんっ! そうだよ! だってほら」
 壁に向けてボールを投げる。
 アスファルトから壁に二重にぶつかり、岩肌にあたってイレギュラーバウンドする。
 下の少女は同じく軽々と掴み取り、和奏に返した。
「うわー! ありえないよっ!! もう一度。もう一回いいよね!」
「別に構わないが……」
 呆れた調子で言いながらも、和奏が投げる不規則にバウンドする球を掴み取っては投げ返す。
「いやー……すごい反射神経だと思うよ。こんな上手いゴロ処理見た事ないもん。在野にもすごい人がいるんだね」
「それは、褒められていると解釈していいのか」
「うんうんっ。いいもん見せて貰ったよー」
「……どういたしましてとしか言えないが、それより帰宅途中だったのではないか? 今里和奏」
「あっ。そうだった! ごめんね付き合わせちゃって」
「ではな」
 女生徒と別れ寮に向かう。
 その途中でふと気がついた。
「……あれ? なんで名前知ってるんだろ」
 というか、あの生徒は一体誰だったんだろうか。
 坂道を振り返っても、もう後ろ姿も見えなかった。


「それは神凪さんではありませんこと」
 和奏の話を聞いて、特徴的な髪型をした同学年の生徒がそう答えた。
「神凪?」
「……呆れた」
 知らない様子の和奏に、南条麻里香はやれやれとため息をついた。
 今里和奏が転校してきた1月から、三学期だけを共に過ごした付き合いの浅いクラスメートである。
 陸上部に所属する彼女は同じグラウンドで活動するソフト部の和奏とは距離も近く、たまに休憩が重なった時などに
会話をしている。
「春休み前の卒業式。今里さんも参加していたでしょうに」
「出ていたけど……」
「その時に理事長挨拶があったのを覚えていませんか」
「…………」
 記憶を掘り返してみるが、さっぱりと出てこなかった。
 あの時は転校すぐの頃にお世話になった先輩がいなくなってしまい、不安と混乱で頭がいっぱいだった。
 この学園に居場所を作ってくれた恩人がいなくなる事の方が、偉い人のつまらない挨拶よりも重要だったからだ。
「ま、確かに壇に上がったのは僅か数十秒だけですから、見逃していても不思議ではありませんが……ですが、それにしてもあんな目立つ人を……」
「確かにおかしな人だったけど、ほんとすごかったよ。どんなイレギュラーでも平気で掴み取ってくるし……ああいう人がソフト部に入ってくれたらなぁ」
「……それ本気で言っていますの?」
「もちろんそうだけど、何でそんなこと聞くの?」
 無邪気に聞き返す和奏に、麻里香は盛大な溜息をついた。
「神凪さんはどこにも所属する気はないと公言していますわ。それに理事長に入られても、部の方も気遅れしてしまうでしょう」
「あ、なるほど。そういう考えもあるんだ」
 納得したと和奏は頷く。
 そこで、もう一つの疑問を思い出した。
「あれ? でも、そんな人がわたしの名前知ってたのはどうしてなんだろう」
「今里さんが転校生だからではないですか? もっとも、あの人なら、全校生徒を覚えていても不思議じゃないです」
「ふーん」
 だが和奏は自分の名前を知っていた理事長の事を知らなかった。
「なんだか悪いことしたかな」
 それを聞いて、麻里香は二度目のため息をついた。


「神凪理事長? どうしたの急に」
 練習が終わった時に、今度は同じソフト部で聞いてみた。
「和奏も外見は見た事あるでしょ? とても綺麗な人だけど……評判はどうなんだろうね」
「嫌われてる人なの?」
「う〜〜ん」
 率直に聞いてみたが、苦い返事が返ってくる。
「良くわかんないっていうのが一番正しいかも……誰に聞いても、きっとそう返ってくるんじゃないかな」
「でも同級生だよ。昨年ずっと一緒の教室にいた人が、学年の三分の一もいるのに?」
「一緒に居た人ほど、そう言うの。美人で頭は良いし運動もできる。漫画みたいな完璧さでしょ? でも話しかけてもつっけんどんで話題も続かないし、仕事とかいって教室に居ない事も多いし……これだけ揃っていて、仲良くなれる人なんていないよ」
「そうかなあ」
 昨日の彼女はとっても付き合いが良かった。
 ……もちろん、にこやかだとは言えなかったけど。でも、面白い子だとは思った。
「やめときなって。友達のことも何とも思わない人だって聞くよ」
「……そーかなー」
 やっぱり釈然としなかった。


 次の日、和奏は登校してくる女生徒の前に立つと開口一番に言った。
「あなたは神凪莉都理事長さん! よし。わたしも覚えた!」
「……ずいぶん唐突だな」
 面食らったようで目を見開いている。
 あれから他の人間にも聞いてみた所、神凪理事長というのは冷淡で傲慢で、他人と接点を作らない人だと言われた。
 一人だけではなく何人も口を揃えて言う辺りからすると、何か切っ掛けみたいな物はあったのだろう。
 だけど、和奏はそれは知らないし自分が来る前の事だから、正直どうでもいいと思った。
 転校してきて日の浅い自分の名前を、相手は知っていた。
 有名人らしいのに、自分は知らなかった。
 和奏はそこに収まりの悪さを感じていた。
「と言う訳で、改めて今里和奏です。この前は名前も知らずにごめんなさい」
「別に構わないが……もしかして、それを言いにきたのか?」
「うん。そうだよ」
「……そうか」
 やや気圧されたように莉都が頷く。
「どうしたの?」
「正直に言って、面食らっている……今までそんな挨拶をされた事がない」
「うんうん。そうだよね。わたしも無いもん」
「…………」
 莉都がぎろりと睨みつけてきた。
 相手を射抜き殺すかのような鋭い眼光。底光りした目の奥で火花が散っているように錯覚する。
「――ひっ!」
 だがよく見ると、眉間の辺りにしわがよっている。
 射抜くほどに睨みつけているが――だからといって、それ以上は言葉を投げかけたりはしない。
 それどころか、その視線もどこか微妙に揺れていた。
 ……もしかして。
 和奏の心に、一つの小さなひらめきがあった。
「困ってます?」
「うむ」
「やっぱり!」
 ……そっかー。怒ってるんじゃないのかー。
 ……でもこの子、ほんと目つき悪いなー。
 和奏は自分の言動が引き金にも関わらず、棚上げして正解を喜んだ。
「……もしかして私はからかわれたのか? だとしたら悪趣味だぞ」
「え? そんな事はないよ。単にお話してみたかっただけ。それと私も名前覚えたよって言いたかったの」
「そんなの別に大した事ではないだろう。この学園に転入してくる生徒なら、名前くらいは覚える」
「そうかもしんないけどね。でもびっくりして、ちょっと嬉しかったから」
「そういうものか」
「うんうん。そういうもの。誰だって名前知ってて貰ったら嬉しいじゃない。あなたそういう事はない?」
「特には」
「え、一度も?」
「ああ……いや、無い訳ではないかもしれない」
「でしょー?」
 莉都はしばし視線を虚空にあげる。
 遠い何かを思い出しているようだった。
「そうだな。今里の言う通りだ。名前を誰かに呼ばれるのは悪い物じゃない……もちろん相手にも拠るがな」
「あはは。それはあるね」
 ひとしきり笑って、和奏は莉都に手を出した。
「じゃあ改めて、わたしは今里和奏。よろしくね」
「……よろしく」
 今も釈然としない調子だが、莉都はその手を取った。
「えへへー」
 それでなんだか嬉しくなってしまった。
 やっぱり噂なんかよりも本人と話した方がずっと早い。
「……何故笑う」
「いやだって、友達できたんだもん。嬉しくならない?」
「友達? 私がか?」
「他にいないでしょ?」
「ふむ……友達か……」
 何気なく言った言葉だが、あまりにも真面目に考え込まれるので、少し不安になる。
「ダメ、かな」
「いや滅多に言われない言葉だったから、少し驚いた。特に拒否する理由もないし、よろしく頼む」
「うんうん。よろしくねー」
 生真面目な事務口調は、ともすれば嫌味や見下されているととられてもおかしくない。
 そして、それらが積み重なってあの噂が出来たのだろうと和奏は思った。
 ――しかし、それにしても硬すぎる。
「あのねー。友達を相手にそういう事は言わない方がいいんだよ」
「そうなのか……?」
「理由があったらダメなのかーとか変に解釈されちゃうからね。だからもっとストレートに行くのが一番」
「ふむ……今里の言うとおりだな」
 そして驚くほど素直だ。
 ふと、悪戯心がわいてくる。
「だから、こんな風に言うといいよ。よろぴく頼む! って。ほら言って言って」
「……いや、さすがにそれはおかしいだろ」
「おかしくないよ。真面目さと可愛さが同居して硬い印象がすごく和らぐんだよ」
「ふむ……よろぴ……いやまて。やっぱりどう考えてもおかしい」
「これが世間の流行りなんだって! ほらほら言ってみてよ」
「絶対にお断りだ。そんな流行があってたまるか!」
「もー。つれないなー。りっちゃんは」
「……だからまて。なんだそのりっちゃんと言うのは」
「あだ名だよあだ名。友達ならこれくらい当然でしょ」
「む、むむむ」
 知り合ったばかりで、少し強引過ぎただろうか。
 それでも良いと思った。後の事を考えての発言ではない。莉都を前にするとつい反応が面白くて色々と言いたくなってしまう。
 だから仕方ない。
 和奏はそう自分を納得させる。
「ダメ? もっと別のにする」
「……別に構わん。名前なんて記号のようなものだからな」
「さっきは誰かに呼ばれると嬉しいって言ったのに」
「言ったが、そういう意味じゃない」
「じゃあどんな意味?」
「だから――」

 和奏の言葉に莉都が反論する。
 二人の少女が明るく話しながら、校門を通る。

 その姿を、通りがかった人間が珍しそうに眺めていた。

 莉都のイメージに合わない、普通の女生徒のようだから。


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