Episode4 〜白雪〜

 窓からひらひらと桜色の花が舞い込んできた。
 東条白雪は白いノートの上に落ちてきた花びらをつまんで、窓から入る日差しに透かす。
 透けて見えそうなほどに薄い花びらだ。
 風に吹けば飛ぶほど頼りない花は、しかし葉よりも先に花を咲かせる。
 そして僅か数週間と経たず、枝だけ残して散華する。
 これに共感を得たのか過去の歌人は桜の花を様々な歌に詠んだ――というのは、今しがた開いていた参考書からの
引用だ。
「…………はぁ」
 窓の外に咲く桜は今が満開だ。
 しかし、後もう僅かな間に。それこそ入学式を終えた頃には散ってしまうだろう。
 春の陽光に溶ける白い雪。自分の名前だ。
 それとどこか似た物を感じさせる桜の花は、白雪のお気に入りだった。
「お嬢様。そろそろ約束のお時間ではないでしょうか」
「――――っ」
 不意に後ろから呼ばれた。
「申し訳ございません。開いたままでしたので」
「いえ、換気に少し開けてましたから」
「それはよろしいのですが……体を冷やさないようお気を付け下さい」
「もう……大げさですよ。紫乃さん。これくらいじゃ風邪なんて引きません」
「ですがまだまだ風が冷たいですから」
 クローゼットから上着を取り、白雪に向けて広げた。
 彼女は白雪の自室である離れを管理するメイドだった。本宅の敷地内に建てられた二階建ての家が、そのまま白雪と彼女だけが使う住居だ。
 白雪に袖を通し、衣服を整えながら紫乃が聞いた。
「本日はどちらに?」
「媛子ちゃんと学園を見学に行ってきます。私、天都原学園を見て回るの初めてだから、少し楽しみです」

 自室代わりになっている離れを出て広い庭を歩いて行く。
 正門の重厚な構えが苦手で、白雪は奥の勝手口を使っていた。
 その時、本宅の窓から顔が見えた。
 壮年の男だ。
「…………」
 白雪は無言で頭を下げる。
 彼女に返事をすることも、声をかけるでもなく男は姿を消した。
 白雪をいない者として扱う事。
 それが父親である彼が白雪をそう扱い、いつしか東条家に定着していたルールだった。


「おはよーです。あれ? なんだかユーウツな顔をしてるっすね」
「おはよう……ううん。大丈夫」
 学園に続く坂の下で友人の斎宮媛子と待ち合わせた。
 共に付属校からエスカレーターで進学する級友で、白雪のもっとも親しい友人だった。
 付属校の入学式で知り合ってから三年の付き合いになる。
「今度も同じクラスになれるといいね」
「そうっすねー。後はクラブ活動も考えないとですし」
 会話を重ねながら、坂道を登っていく。
「媛子ちゃんはもう決めているって言ってなかった?」
「そりゃもちろん新聞部は決めてるですが、でも部があって入るのと、自分で作らなくちゃいけないのでは全然別モンっすよ」
「確かにそうだね」
 媛子の話を聞きながら、白雪は感心していた。
 同じ年なのに、媛子は既に新生活をどのように過ごすかを決めている。
 漠然とではなく、何をしたいのか。そのために何をすべきかを考えている。
「媛子ちゃんはすごいな」
「いきなりどうしたっすか」
 面食らった様子の媛子に、今思った事を言ってみた。
「そんな大げさですよ。わたしはむしろ、ぜんぜん考えてないだけっすよ」
「そんなことないと思うよ。だって今日だって――」
「いやいや、やっぱ一人じゃ行くの怖いっすから。白雪ちゃんが付き合ってくれて感謝感激っす」
 媛子が学園を見てみたいというので、その付き合いだった。
 白雪自身も新しい学び舎に興味はあったが、それは漠然とした思いにすぎず、近場だというのに見に行く発想は湧かなかった。

 二人は期待と不安を内包して、坂道を登っていく。
 ……しかし、校門に着く頃には動悸と息切れに取ってかわっていた。

「こ、この坂……けっこう辛いっすね……」
「うん……」
 特に運動が出来ない白雪には大変だった。
 心臓がドキドキと早鐘のように打ち鳴らされている。
 大切に使わないといけないのに、壊れてしまうのではないかと心配になった。

「どうやらスクールバスも出てるみたいっすね。一度駅の辺りに行く必要はあるっすが、白雪ちゃんはこっちの方が楽かもしれないです」
「そうなんだ……そうしようかな」
「わたしは寮からだから、歩きになりそうっす」
「媛子ちゃんもバス使おうよ」
「雨の日は便利そうっすね……じゃあ、帰りにバス亭の場所を確認していくですかね」
 雑談をしながら校門をくぐる。
 春休みにも関わらず、運動部は練習をしているようだった。
「あれ? あなた達、見学者?」
 不意に声が掛けられた。
「あ、はいっ! そうっす。斎宮媛子です」
「え、えっと。東条白雪です」
「ふーん……斎宮さんと東条さんね。あたしはここの教師をしている、神無月朱美。よろしくね」
「……え、先生っすか?」
「何よその反応」
 ジャージ姿の教員は身長も体形も二人と殆ど変らない。
 童顔で小柄な体躯は、生徒と言われても違和感がなかった。
「いえ! すごくお若い先生でしたので。付属では年配の方ばかりでしたので、驚きました」
「ああ、二人とも付属から来たのね。それで春休みに見学なんだ」
「はいっす」
「それにしても……」
 神無月と名乗った教師は二人の姿を眺める。
「斎宮は髪切った方がいいんじゃないの? あたしはともかく、入学したら絶対に先生になんか言われるわよ」
「わ、わわっ。これはダメっす! すぐ顔が赤くなっちゃうから、恥ずかしいっすよ!!」
「そういう問題じゃないでしょ」
「問題っすよー!」
「ほら顔見せてみなさい」
 呆れた口調で媛子の前髪を払う。
「わ、わ、わわっ!」
「何よ、可愛いじゃない。隠すなんてもったいないわよ」
「白雪ちゃんー! 助けて欲しいっすーっ」
 媛子が白雪の後ろに回り込んでくる。
「まあまあ……」
 それをなだめながら、白雪は聞いた。
「先生にお願いがあるのですが、保健室の場所を教えて貰ってもいいですか?」

 案内されて保健室に行くと、つんと薬品の匂いが鼻についた。
 白いカーテンにパイプのベッド。
 白雪にとって見慣れた光景だ。
「あなたはなにか持病があるの?」
 机の上の書類をめくりながら、朱美が聞く。
「昔、心臓が少し……ですが病気よりも怪我の方でお世話になるかもしれません」
「怪我?」
「その……よく転ぶんです。他にも色々な物にぶつかったり……私、どんくさくてドジなんです」
「ふーん、そうなんだ……最近はどこを怪我を?」
「あ、ここです」
 袖をまくりあげて肘を見せる。
 よく転んで肘や膝を擦りむく。
 名を現すような真っ白い肌に、少し色の変わった痕が幾つも残っている。
「怪我自体は大したことないのね。本当に転んだだけなんだ」
「はい……こちらでお世話になると思います」
「わかったわ」
 さらさらと机の上にメモを書いて載せる。
「もしかして先生が保険医さんだったっすか?」
「そうよー。掛け持ちだけどね」
「そうだったんですか……これから3年間お世話になります」
「……もう、最初から怪我する気になっててどうするのよ」

 そのまま、朱美に連れられる形で校内を見て回る。
 校舎から外を見ると、ソフト部が練習試合を行っていた。
「毎週やってるのよ。春休みだっていうのに」
「へー……熱心っすね。記事になるかもです」
「斎宮は新聞部希望?」
「そうっす。学園にあったら入ろうと思うですよ」
「そうなんだ」
 それじゃあこっちと、手招きする。
 階段を登り、廊下を進み――教室のプレートには新聞部と書かれた札が入っていた。
「おおっ」
「部室はここね……とはいえ、無人だけど」
「え、無人? 廃部になったっすか?」
「違う違う。全員卒業しちゃったから、部室だけは残ってるのよ。誰も入らなかったら、部室のない所に割り当てられる事になると思う」
「じゃあ、わたし入るですよ!」
「ふふ、入学してからね」
「あー……そういえばそうだったです」
 楽しげな媛子をみながら、白雪は内心羨ましいと思っていた。
 やりたい事の無い自分は、媛子の持つ率直さと明るさが眩しく見える。
 ――部活に入りたい。
 もし、家の人間にそう言ったら、なんと返ってくるだろうか。
 紫乃は……条件付きで賛成してくれるような気がする。
 ただ、彼女は事務的に接するのが常だ。自分が雇い主の娘だから、拒否をしないだけかもしれない。
 父親はどうだろうか。
 反対するのか、それとも賛成するのか――。
 ――どうでもいい。と投げやりな言葉を返してくるのか。
 それが一番可能性が高く思えた。
「白雪ちゃん?」
「――――」
 少しの間、物想いにふけっていたようだ。
 二人が顔を覗きこんでいた。
「何でもないの……ごめんなさい」
「外に出ましょうか。他に行きたい所はある?」
「えっと……」
 気を使ってくれているのが分かる。
 しかし、特に行きたいと願う場所はなかった。
 でも彼女の厚意に何かを言いたいと思って、迷った末に口にした。
「先生のお勧めの場所を教えて下さい」
 それを受けて、朱美は朗らかな笑みを浮かべる。
「いいわよ。ついてきて」

 重たいドアを体で押すように開ける。
 高いフェンスに囲まれた屋上。
 山に立つ学園だけあって、空が近く感じられる。
「ここがあたしのお気に入り――といっても、単に屋上だけど」
「ほへー……いい眺めっすね。街が見渡せるですよ」
「ここに通ってた頃から好きな場所なんだ。あの頃から街並みは少し変わったけど、それでも景色の綺麗さは変わらないかな」
「…………」
 話を聞きながら、白雪は入口から足が踏み出せなかった。
 高台にある学園の中でも、更に高い位置から見る屋上では、フェンス越しであっても下に吸い込まれそうだ。
 地平線は空と繋がっていて、この屋上だけが青い空に浮かぶ島に見えた。
「白雪ちゃーん。いい眺めっすよ」
「う、うん」
 媛子に呼ばれて、一歩前に歩きだした。
 大海原と思えた青に、緑が混じる。
 角度が変わり、山の尾根が見えてきた。
 そしてまた一歩。
 ビルの先端が僅かに顔を覗かせる。
 一歩。
 今度は駅が見えた。
 新たに覗かせる光景が楽しく――気付いたら、フェンスに手をかけて、眼下を見下ろしていた。
「綺麗……」
「夕方が一番お勧めなんだけどね。あ、ほら試合がよく見えるわよ」
「…………」
 グラウンドではソフト部の試合が行われている。
 付属でも体育の時間は殆ど休んでおり、ルールも漠然としか分からない。
 それでも、投げて、打って、走って――。
 生き生きと跳ねまわる選手達は、とても自分と殆ど年の変わらない少女達だとは思えなかった。
「ここ、いいですね。私も気に入りました」
「よかった……そう言ってくれると嬉しいな」
 朱美が朗らかに笑う。
 大人らしい静かな微笑みではなく、見ている側を楽しくさせる笑顔だった。
 それでこの先生の事が好きになった。
 これから3年間やっていけそうだと白雪は思う。
「他にも学園の見所を教えて欲しいですよ」
 媛子の声に考えるそぶりをして――それから朱美は笑った。
「沢山あるけど、それは自分で探した方が面白くない?」
「ええ〜……そうですか?」
「そういうものよ。この学園、色々とあるわよ? 3年間で見つかるかしら」
「あ! 付属の頃に幾つか聞いた事があります。えっと、おまじないとか!」
「おまじない?」
「はいっ。学園の近くの森には謎の洋館が建っていて、そこのレンガに名前を刻んでおくと想いが叶うと聞きましたっ」
「………………」
 白雪としては聞きかじっただけの――しかし、とてもロマンチックな話題を出したつもりだった。
 だから呆気にとられた朱美と、その後の反応はとても予想が出来なかった。
「あははっ!! あーあーっ! あった、あったわそれ!! でも……く、くく、あっはっは……あー、お腹痛い……っ」
「え、え……ええっ!? わ、私……その、単に聞いた話で……聞いただけの噂で! えっと、そんなに変な事を言いました?」
「う、ううんっ。そんなこと無いわ。単にギャップでおかしかっただけ。とってもいい話だと思うし、あたしが学生時代の頃から言われてたから……それ。もっとも当時は、洋館の中に入って奥の壁に落書きだったけど」
「へー……今度試してみたいっすね」
「今は止めた方がいいわよ。すごくこわーい人が出るから」
「ええっ!? そんな、脅かしはなしっすよ」
「さー、どーかしらねー」

 答えをはぐらかすように、朱美が屋上の出口に向かう。
「さて、あたしはそろそろ行くわね。二人はどうする?」
「私も帰ろうと思います」
「そうっすね。バス亭の場所も見て行かないとですし」
「それなら下まで一緒に行きましょうか」

 朱美と共に、校門まで戻る。
 帰ろうとする二人を呼び止め、朱美は言った。
「入学式はまだだけど――ようこそ、天都原学園に。ここで二人にとっていい想い出が出来る事を祈ってるわ」

 朱美に礼を言って、頭を下げた。
 気軽に手を振って校舎に戻る彼女を見送り、媛子は言った。
「いい先生っすねー」
「……うん。とっても」
 学園の前の坂道から、街を見下ろしてみる。

 少し目を凝らして、駅前から市街地を辿り――自分の家を見つけた。
 広い敷地に大きな建物。
 一度見つけてしまえば、後は容易かった。
 しかし、出かける前に感じた重厚で堅牢なイメージの住居は、上から見ると他よりも若干目立つだけの、単なる家でしかなかった。

「……今日は来てよかった」
「それはよかったっす」
 この言葉の意味は、媛子が受け取ったのとは違うだろう。
 でもそれでもいいと思った。

 これから後一週間で入学式がある。
 それが終わった後は、ここの制服を着て自分は登校するのだ。

 これから新しい生活が始まる。
 どくん、と心臓が小さく鼓動を鳴らした。
 それは来た時とは違う、未来への想いを秘めた胸の高鳴りだった――。



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