桜が舞う。
肌寒さの残る3月から、柔らかな春の日射しにあふれた4月へとカレンダーは移り変わっていた。
コートを着る生徒の数もずいぶん少なくなった。
上着を着ていても、マフラーと手袋まで身に付けた者はいない。
始業式が終わり寒い体育館から解放された。
これから新しいクラスで、新しい一年が始まる。
「やった。同じクラスだね」
「そうだな」
廊下を歩きながら、今里和奏が話しかけてくる。
春休みに知り合ったばかりだが、莉都と正反対の明るくあけすけな和奏はどこか馬が合った。
「りっちゃんがどんな挨拶をするか楽しみにしてたんだけど」
「始業式ではやらない。基本的に入学式と卒業式だけだ」
「どうして?」
「さて……いちいちやる必要がないからだろう。学園運営に密接にかかわる教員ならともかく、あまり関係のない理事長が、何かにつけて出てくるのもおかしい」
「へー。そういうものなの」
和奏が感心している。
しかし、次の言葉こそが莉都の頭痛の種だった。
「じゃあ明日は挨拶するんだ。入学式だしね」
「……ああ」
教室についた。
楽しみにしてると言い残して、和奏は自分の席につく。
「…………」
――まったく。気軽に言ってくれる。
莉都は嘆息する。
気の利いた挨拶など、そう簡単に思いつくはずもなかった。
「それではホームルームを終わります。明日は一時間目と二時間目が入学式になり、それ以後は通常の授業になります」
担任の天野深弥が連絡事項を読み上げていく。
入学式まで後一日を切っている。
実質、今日の放課後しかない。
「……どうしたものかな」
ここ最近悩んでいた理事長挨拶は、まだ草案すら出来ていなかった。
「理事長なんか悩んでんのか?」
近くの席の寺内陽太が聞いてくる。
「……少しな」
「ふーん。理事長も悩む事あるんだ」
「当たり前だろう」
からかわれているのだろうか。
静かな所に行きたいと思って、席を立つ。
「今のは不躾だろう」
「え、そうか? ワリぃ」
上杉慶一の注意に、陽太から謝罪がくる。
「気を害したわけじゃない。だから謝罪もいらない」
莉都は率直に言っただけなのだが、二人の級友はそれで納得した様子はなかった。
――難しい物だ。
屋上から街を見下ろしながら、人には分からない溜息をつく。
事務的なものではなく気持ちが通じる挨拶をと小夜璃に言われて、苦手であっても取り組んでみようと思った。
しかし、ここまで筆が進まないとは思ってもみなかった。
最初に考えていた挨拶文ならある。
春休み前に既に草稿を出しており、入学式にはこの言葉だと告げてある。
しかし、自分が別の入学式挨拶を考えているなど、既に教員達に知れ渡っているだろう。
ここで元に戻すのも、負けたみたいで悔しかった。
「あ、こんな所にいた」
和奏がやってくる。その手には莉都の鞄も持っていた。
「陽太くんが気にしてたよ。悪いこと言ったかなって」
「気を害した訳じゃないと言ったのだがな」
「りっちゃんは言い方がキツいからねー」
「性分だ。今さらそんな事を言われても知らん」
「もう少し、にこやかにしてみればいいんだよ」
気楽に言ってくれる。
級友を作り、人々の輪に溶け込むのも、立派な能力だ。
それは自分が持っている物ではない。
そんな事を考え、ならば目の前の少女と自分の違いはどこにあるのだと考えた。
「いっそ今里の事でも話してみるか」
「何いきなり。どうしたの?」
「いや……」
個人について語っても意味不明だ。
代わりに違う事を聞いた。
「今里は前の学園で心に残ってる出来事はあるか?」
「う〜〜〜ん。ない事もないけど……なんだか今日のりっちゃん、いつもと違うよ? なんかあったの?」
「実は……」
和奏に入学式の挨拶の事を話した。
春休み中から考えている事。
そのくせ、全然思い浮かばない事。
人の心を打つ言葉というが、どういう事なのか分からない事。
そんな事を、取り留めもなく話していた。
「はぁぁ……なるほどねー。それでずっと考え事してたんだ」
「自分の言葉が無味乾燥だというのは分かっているんだ。けれど、それはやはり自分の言葉だから、すぐには他の言葉が出てこない」
「ふむふむ」
「それで今里に聞いてみたいと思ったんだ」
「なるほどねー」
うんうんと繰り返し頷いている。
「でも……心に残ったエピソードかぁ……」
「もちろん言いたくない事まで探ろうとは思わない。それを聞いてどうすればいいのかも分からない。ただ……ヒントが欲しいだけなのだろうな」
「ううん。ヒントが欲しいなんてよくある話だもん。りっちゃんは真面目すぎなんだよ」
言いながら、和奏は指を絡めた。
思い出すように自らの手に視線を落とす。
「引っ越しの直前にね、あったよ。前の学園であった一番大きな出来事」
「それは?」
「えへへー」
照れた笑みを浮かべる。
「りっちゃんって、誰かに助けて貰った事はある? それともやっぱり助ける側だったのかな」
「いや、それくらい私にもあるぞ」
「そっかー……そうだよね。えへへ」
和奏が語りだした内容に耳を傾ける。
クリスマスの日。
ふとした切っ掛けから起こった、一つのエピソード。
「引っ越しの前だったからかな。もうここから居なくなるって思ってたから、気が大きくなっていたのかも」
和奏の話はそんな言葉から始まった。
クリスマスの日、仲が良かった女の子達がお別れ会を開いてくれた。
みんなでケーキを食べて、カラオケに行って――その帰り道。
クリスマスムードに盛り上がる市内で、一人の女の子が複数の男の人に絡まれていた。
「いやー、気がついたら割って入っててさー。最初はよかったんだけど、その後はすっごく怖かったね」
「だろうな」
「もう怖くてどうしようって思って、そんな時にクラスの男の子が助けてくれたの」
その時の記憶を探し当てるように、胸に手を当てる。
「あんまり話した事のない人だったんだけど、周りの人と少し距離を取ってる感じがしてた人でね。まさか助けてくれるなんて思いもしなかったなぁ」
「だが数の不利は変わらないだろう。そいつはどうしたんだ?」
「え? あ――よくわかんない。悪い人といっしょに真冬の川の中に飛び込んでたっぽいのは覚えてるけど」
「…………」
「――今、死んだだろって思ったでしょ」
「少しな」
「それからすぐ引っ越しちゃったから、お礼も言えてないんだよね……風邪ひいてないといいんだけど……真冬に川だから病院行っててもおかしくないし……大丈夫なのかなぁ」
「それが今里の想い出か」
「うん。――あ! りっちゃんだから話したんだからね。他の人には内緒だよ?」
「わかった。約束する」
太陽が沈む。
下校時間になって二人は外に出た。
「それにしても進矢くんかー。ほんと懐かしいなぁ」
「…………」
別れ際、和奏が言った。
その名前に莉都が止まる。
「進矢?」
「え? うん――クラスメートの名前だよ」
「進矢というのか」
「そうだよ? 倉上進矢くん」
「…………」
その単語に硬直する。
「それじゃ帰るけど……明日の挨拶、頑張ってね」
「あ、ああ……助かった。ありがとう」
自室に戻ってからも和奏の話を思い出していた。
自分と今里和奏が交友関係を結んでいるように、見知らぬ人間同士が繋がりを持つ事もあるだろう。
入学式というのは、そのための第一歩の場なのかもしれない。
付属から来た生徒たちと外部受験の生徒が一堂に会する。
付属は女子校だから、人数が少ないとはいえ初めて同年代の男子生徒に触れる者もいる。
今里和奏が良く知らないクラスメートに助けられたように、接点のなかったはずの人間が、どのように自分の人生に影響を与えるのか――それは、これからの学園生活を過ごしてみないと分からない。
そして――。
進矢。
倉上進矢。
同性同名かもしれない。
性も名もどちらも良くある名前だ。だから、偶然の一致の可能性も否定できない。
「……そうだ」
和奏の前の学園名は分かっている。
日時と場所も判明している。
少し調べてみようと思った。
『おーい。莉都ー! 今日はあっちの公園までいくぞ!』
『それは遠くないか……?』
『それくらい大丈夫。探検しようぜ!』
懐かしい声が蘇ってくる。
あの頃の記憶も全て大切にしまってある。
まだ何も知らなかった子供の時代。
そこに、神凪莉都の全てが詰まっていた。
「……進矢……」
和奏を助けたのが本当に彼だとしたら。
莉都が知っている頃の進矢なら、きっとそうする。
「私は……お前に……」
取り返しのつかない事をした。
あの時の約束も全てをひっくるめて、今も鮮明に覚えている。
彼にもう一度逢いたいと思った。
例え子供の頃から変わってしまったとしても。自分の事を忘れているとしても、それでも身の内に沸いた欲求は抑えられなかった。
――そうか。そういうことか……。
一つ胸の中にすとんと落ちた。
腑に落ちたという言葉の意味が実感として分かった。
自分の中にも人と繋がっていたいという気持ちがある。
これから先、彼と再会する事を思うと期待と不安が胸の奥に広がっていく。
これは――誰しも抱える物だ。
未知の出会いに対する恐れと希望。
それらを抱えて、最初の第一歩を踏み出していく。
その時に掛ける言葉なのだから、無味乾燥な物では味気ない。
「……なるほど。小夜璃が言っていた理由がこれか。今になってようやく分かるとはな」
廊下に出て正面の扉の前に立つ。
ノックをして中の住人に声をかけた。
「小夜璃、私だが居るか?」
「あ――はい。呼んで下さればこちらから伺いますのに」
「どうせ目の前の部屋だ。大した労力でもない。それよりも明日の理事長挨拶の事だが……」
「はい」
首を傾げる小夜璃に、思いついた内容を話した。
「……少々気恥ずかしいが……どうだろう」
僅かに頬を染め、僅かに自信なさげに伺う姿は紛れもなく普通の年頃の少女だと思った。
「はい。とてもよろしいと思います」
「そうか……」
少し胸を撫で下ろす。
その姿を見て、小夜璃は自然と言葉を告げていた。
「頑張ってください」
「ああ……うん。頑張る……が……」
莉都にしては妙に歯切れが悪い。
ややあって、ぽつりと言った。
「他人から励まされたのは、初めてかもしれない」
「そうなのですか?」
「少々くすぐったいが、悪い気はしないな」
――翌日。
天都原学園の講堂には静寂が降りている。
「理事長挨拶」
進行役の学年主任が宣言を受けて、莉都が壇上にあがった。
制服を着た女生徒が壇上にあがるのを見て、新入生からざわめきが零れる。
莉都の事を知る者。知らない者。
それぞれイメージのギャップを埋めるために語っている。
「あー……ごほん」
マイクの前で一つ咳払いをした。
それで急速にざわめきが収まる。
壇上にいる同年代の女生徒が、はたして何を喋るのか。固唾を飲んで見守っている。
同時に莉都に対して苦々しい視線を送っている者もいた。
進行役を務めている年かさの学年主任を始め、年配の教師ほどその傾向が強い。
三年生の最前列に座っている名凪星華は、複雑な顔をしていた。
彼女の位置からは教師たちも莉都も、どちらも見える。
莉都が一部の教師から疎まれているのも分かる。
それでいて、当人に疎まれる理由があるのも理解している。
好奇心と嫌悪と。
それらに属されない複雑な視線を向けられながら、莉都は胸を張って壇上にいる。
「ただ今紹介に預かった天都原学園理事長。神凪莉都だ。学年は2年に在籍している」
莉都から挨拶の第一声が入る。
その時点で事前に出した挨拶草案と違っている。
教師陣が先の生徒たちとは違った理由で囁き合っている。
「入学式に辺り、私はこの場で語る挨拶を考えていた」
静かなよく通る声が講堂に響く。
唐突な内容に囁く教師が徐々に鎮まる。
在校生は腫れ物のような理事長の普段と違う様子を注視し、新入生は壇上で語る学園最高権力者の肩書を持つ生徒に目を奪われている。
「まず、天都原学園に入学した事に対して祝辞を述べさせていただこうと思う。この学園は知っての通り、共学化したばかりで男子は全員が外部受験。女子は付属校から進学してきた者も多いと思う。それゆえ、初めて同学年の男子と接した者もいるだろうな」
ざわざわと囁きが零れた。
理事長にしては砕けた言葉をいぶかしむ者。
そして、彼女の真意が掴めずに困惑する者。
反応は様々だが、それでいて一つの意思に統一されていく。
壇上の少女から目が離せなくなる。
人を惹きつけてやまない、力のような物があった。
「これから先、どのように過ごすのかそれは各人の自由だ。元の仲間たちで集まるもよし、外部から来た者を知己に迎えるもいい。新しく輪を構築して行くのもいいだろう。だが、全てにおいて言えるのは、その時の相手を大切にして欲しい」
莉都の言葉が広がっていく。
新入生の列に座る生徒がおずおずと莉都を見上げた。
長い髪に清楚な雰囲気を漂わせた東条白雪は、その言葉に昔、共にいた親友を思い出した。
椎堂小太郎の視線が彷徨う。
在校生の席にいるはずの主を無意識に探していた。
「今この時から、新しい時間が始まる。それを価値のあるものにするのか、それとも無為に三年間を過ごすのかは各人の自由だ。私は他人が過ごす有意、無為のどちらも当価値と考える」
雲行きの怪しい台詞に和奏は頭を抱えた。
その近くでは麻里香も同じようにしている。
寺内陽太と上杉慶一は、その挨拶が理事長の悩みだったのかと囁き合っていた。
「その価値は私ではなく、あくまで本人が見つけだす物だからだ。他人の視線や判断に裁定を委ねるのではなく、自らの決断で選び取っていって欲しい」
天野深弥は内心で胸をなでおろした。
理事長の能力は学園のこれまでにおいて既に証明されている。
それでもなお、側にいるだけで心臓に悪い少女だと思っている。
莉都を特別視せず、同じ生徒として心労を重ねている深弥をみて、神無月朱美は苦笑した。
自分の後輩はずいぶん心配性だと。
もう少し肩の力を抜いた方が、人生は上手くいく。
それは壇上の理事長にしても同じ事。
けれど、朱美は真面目な人間が嫌いではなかった。
先日学園を見学にきた女生徒たちを思い出す。彼女たちも今の言葉を聞いているだろうか。
そして、卒業までどのような出会いを重ねていくのだろうか。
「これで入学式挨拶の締めくくりとさせて貰う。この学園に入ることを諸君は既に選択をした。その決断を後悔しない物にして、無事に卒業式を迎えて欲しい。卒業という別れの日は決まっている。今日を出会いの日とするか、ただの行事にするかは君達次第だ」
――入学おめでとう。
天都原学園は新入生を歓迎する。
そう言って、莉都は一礼した。
颯爽と壇上から去る。
あまりにも自然な動作に、講堂が静寂に包まれた。
パチ……パチ……パチ……。
真っ先に拍手を送る者がいた。
講堂の一番後ろ。スーツ姿の小夜璃が壇上を去る莉都に向けて拍手を送っている。
そこから、音の輪が広がっていく。
やがて万雷のうねりとなって、講堂を揺るがせた。
「…………ふぅ」
これで終わった――と莉都は内心吐息をついた。
――少し不格好な台詞だっただろうか?
自問の声に内心で首をふる。
それでも構わない。言うべき事は言った。
他人の裁定にゆだねるのではなく、自らで評価を下していく。
挨拶の中で自分はそう言った。
そしてこれでいいと思った。
なら、それでいいだろうと。
拍手が響く。
それは彼女が初めて受ける物だった。
――臆病にならず、新たな出会いを受け入れる。
一言で言うなら、ただそれが言いたかっただけだ。
入学式から約一月半が経って、当時を振り返って自重する。
それがまとまりきらず、ずいぶん長い台詞になってしまったものだと。
駅に向けて歩を進める。
待ちあわせの時刻よりもずいぶん早い。
もう少ししたら、彼と再会を果たす。
「………………」
――ごくり、と唾を飲み込んだ。
どうやら自分は緊張しているらしい。
もうすぐ、彼はここに現われる。
現われる――はず。
進矢が過去をどこまで覚えているのか。
自分と過ごした日々は記憶にあるのか。
そして――あの約束の事は……?
それらを考えると、心の奥に僅かな翳りが現われる。
「――――ぁ」
遠くに黒髪の青年の姿が見えた。
あの頃から背がずいぶん高くなった。
大きなバッグを持って、駅前をきょろきょろと見渡している。
ここにきて、ずいぶん間抜けな事に気がついた。
彼に対してなんと声をかけるべきか、まったく考えていなかった。
どう声を発するべきか、瞬間迷う。
けれど――声より先に、体は彼の方へと歩きだしていた。
「はやいな。もう着いていたのか」
声は、予想以上にスムーズに出た。
内心の葛藤や動揺を飲みこんで、10年の歳月を一足飛びに埋めようとするかのように。
一つ。
二つ。
お互いに言葉を交わすたびに、二人の間を隔てていた溝が埋められていく。
「ただいま。久しぶりに会えて嬉しい」
「よく戻ってきたな」
本当に――よく帰ってきてくれた。
万感の想いをこめて、進矢に言う。
「ほんと久しぶりだ」
拳を作って、進矢の胸元を軽く叩いた。
そこにコツンと彼の手が合わせられる。
「覚えていたのか」
「当たり前だろ」
出会ったのはずいぶん昔。
離れていたのは10年と少し。
けれども、お互いに変わらない想いを抱いている。
「でもさっきのは嘘じゃないぞ。会えて嬉しいってのもな」
「……バカものめ」
再び――想いをこめて、進矢の胸元を叩く。
――ここに、神凪莉都と倉上進矢は再会を果たした。
Next Episode ―― Concerto Note
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